塾員 in 台湾
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−海外要員として採用されたわけですから、すぐにまた海外ですね。


ソニーに入って、最初に配属されたのは「中近東課」でした。実は内心、もう一度ブラジルに派遣されないかな、と期待していたのですが、その夢は破れてしまいました。ただ、思い返してみると、中近東諸国に出張してかの国々を見て回ることができたのは、大変良い経験になりました。
 慶応大学在学中に、中近東学会の会長も務められた遠峰四郎先生の講義が頭に残っていたこともあって、もともとアラブの世界への好奇心もありました。
 それでも「機会があれば再度ブラジルへ」という希望を持っていましたので、ブラジルへの思い入れは相当なものだったといえますね(笑)。
 「一念、岩をも通す」のでしょうか。ブラジルの隣国・ベネズエラへ派遣が決まりました。赴任先のカラカスはベネズエラの首都で、年中、初夏のような温暖な気候のところでした。
 気候は良かったのですが、ベネズエラでは、赴任初日に恐怖の体験が待っていました。


−エッ、恐怖の体験ですか?


はい。“ピストル強盗”に遭いました。
 日本からの一日以上かけた長旅の末に、やっとベネズエラに到着して、飛行場に出迎えてくれたソニーの社員と市内へ向かおうとしていたときのことです。
 われわれは警察に車を誘導されたのです。警官の制服を着ていたので、それに安心してついていったのが運のつきでした。気がついたときには人気の無い場所に連れて行かれ、ピストルを突きつけられ、有り金を全部巻き上げられてしまいました。命まで取られなかったので良かったともいえますが、本当に恐ろしい体験から始まったベネズエラ赴任でした。

 ベネズエラでは、ソニーの電気製品を電気店に売るのが私の仕事でした。当時はラジオ、テレビ、ベータマックス(ビデオ)に大変人気があったので、定期的にセールスマンを集めて、売り込むための会議を開きました。
 言葉は、今度は全部、スペイン語です。上司は上智大学出身でスペイン語が堪能だったので助けられましたが、ここでも最初の半年間は言葉に苦労しました。ブラジル時代にポルトガル語をマスターしていましたが、スペイン語と似ているようでやはり違うのです。夢でうなされるほどでした。スペイン語を一つずつ覚えるごとに、ポルトガル語を忘れていくような状況でした。

ベネズエラの後は、アラブ首長国連邦(U.E.A)のドバイに赴任しました。赴任したのは1990年6月でしたが、7月に入りクウェートの代理店に1週間出張しました。皆さんもご記憶のことと思いますが、イラクがクウェートに侵攻したのがその年の8月です。
 もし出張が1カ月後にずれていたら、私はイラクに半年以上人質になっていた可能性があります(笑)。


−ハワイの飛行機事故、ピストル強盗、そして、あわや人質と波乱万丈ですね。


 91年初めに湾岸戦争が始まりましたが、その前には家内を日本に返し、現地には社員だけが残りました。UAEは比較的安全だったとはいえ、イラクのクウェート侵攻の後、「いつ戦争が始まるかわからない」「いつ化学兵器が飛んでくるかわからない」という緊張状態にありました。
 我が家には、いつも夜中にソニーの若い社員が集まってはカラオケ大会でした。家族はみんな日本に帰ってしまって、単身の我々は毎晩のように酒を飲んで、いつ死んでもいいように、と(笑)。とはいえ、この状態は精神衛生上よくないので、月に1回は日本に帰っていました。そして湾岸戦争が始まる2、3日前に、日本行きの最後の切符を手に入れて、ドバイを脱出しました。

 しかし日本に帰ってみても、任地はUAEですから本社に自分の席がないのです。そこで仕方なくインドに2、3カ月、放浪の旅をして過ごしました。戦争が落ち着いた頃に、家内と一緒にドバイに戻りました。ソニーで戦争が終わって始めてクウェートに入ったのは私でした。
 イランには毎月行っていましたし、シリア、レバノン、バーレーン、サウジアラビアと、2年間の赴任で、中東にはかなり詳しくなりました。

−ドバイではアラビア語を学ばれたのですか?


 いえ、ドバイでは、全て英語を使っていました。社員はインド人が多くて、ソニー関係だけで200人ぐらいはいたのではないでしょうか。
 生活面では、UAEは石油で豊かな国ですから、インフラも整っていて、水泳、スポーツクラブ、ゴルフ場も完備していました。
 一般的に国民も皆、金持ちなのです。教育もただです。家内はこの国が大好きで、帰るときは涙ぐんでいました。ドバイにも10人くらいの小さな会でしたが、三田会がありました。カラカスの三田会で一緒だった日立の人とドバイの三田会で再会し、感激したことがありました。世界も意外と狭いものです。

女房と仲間の日本人マネージャー
(SONY GULF社内)
日本本社幹部、ガルフ幹部社員、
近隣のソニーの仲間、代理店入れての
スポーツ大会の写真(ドバイのスポーツクラブにて

 

−ソニーから現在のUSCに転職なさったのは、どういう経緯でしたか。

 USCはソニーの半導体商社系のグループ企業です。日本へ帰国後、たまたまUSCの会長と知り合いになりました。USCでも海外要員が不足しているということだったので、1年間をソニーの出向という形をとったあと、正式にこちらに移りました。
 USCでは、香港社長、シンガポール社長を務めました。香港赴任の4年間には、97年の中国への返還という歴史的瞬間に居合わせることになりました。シンガポールでは売り上げが年間150億円近くある大所帯でした。スタッフも20〜30人ぐらい抱えて、近隣のタイ、インドネシア、マレーシア、ベトナムへの出張も随分、頻繁にこなしました。

香港、シンガポールを経て、日本には帰らず横滑りのような状態で台湾に来て2年3カ月が経ったところです。

−お聞きしていますと、「いろいろな世界をみてみたい」という若い頃の希望通りの34年間だったのですね。

 そうですね。社会に出てから今日までを振り返ると、まさに自分の思ったとおりの軌跡を辿ってきたと思います。世界を飛び回る仕事への関心は、日本でもトップクラスといわれる慶應大学政治学科で地域研究を学んだことが影響したと思っています。

シンガポール駐在時代
友人たちと自宅にて
               
                    
 

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