ええ。ただ、その半年後の、日本に戻るときのことですが、九死に一生を得る事故に遭遇しました。飛行機に乗って離陸して間もなく、エンジントラブルが発生したのです。窓から外を見てみると、エンジンが火を吹いているではないですか。それを見た瞬間、「大変なことになった!」と血の気が引くのを感じました。
タンクからオイルを空中に廃棄しているという報告を聞きながら、「万が一、オイルに引火すれば、爆発だな」と、生きた心地がしませんでした。飛行機は何とかハワイに引き返しましたが、ハワイでの思い出を胸に危うく海の藻屑となるところでした。
−ご無事でなによりでした。ハワイの後も、海外赴任でエキサイティングな体験の連続だったのでしょうか。
帰国後は、海外事業本部に配属されたのですが、すぐにブラジルのリオデジャネイロに派遣されました。27歳から30歳までの約3年間です。1980年前後のことですが、当時、リオは、サンパウロと違って日本人がほとんどいませんでした。
加えて、当時、ブラジルでは、ポルトガル語しか通じませんでしたから、英語では、生活するにも不自由する状況でした。そのため最初は、忙しく仕事をしながら、同時並行でポルトガル語を学びました。半年ぐらいで何とか日常語は聞き取れるようになりましたが、つくづく新しい言葉を覚えるというのは大変なことだと思いました。
この3年間のあいだに、中南米の国々を調査で回りました。リオはカーニバルが世界的に有名ですが、それを3回経験しました。1年目は桟敷で見ているだけたったのですが、2年目からは私もクラブで仮装して、お酒を飲んでサンバを踊りました。強烈なカーニバルの熱気のなかで、とても楽しかったですよ。陽気なブラジルの人たちに囲まれて、「人生ってこういう風に楽しむんだ」と気づかされた感じがしました。当時、「ブラジルは将来大国になるだろう」という予感もあって、「この国に移住したい」とまで思ったぐらいです。
−最初は大変でも、ブラジルと完全に一体化されたご様子ですが、それでは日本に戻りたくなくなったのではないですか。
その通りです(笑)。日本に戻って暫くして、ソニーが海外要員を募っているのをたまたま見つけたものですから、早速、応募しました。2カ国語が応募の条件だったので、私は英語とポルトガル語と書いて応募したのです。そうしたら、合格してしまいました。当時はまだ終身雇用が当たり前で、転職は今のように多くない時代でしたが、私はまだ30歳そこそこの若い年齢でしたので、海外で働く情熱が燃え滾っていたのでしょうね。“自分を試してみたい”という気持ちで、ためらうこともなくソニーに転職しました。
|