塾員 in 台湾                                                      File 10

 
朝新金属工業股イ分有限公司 副董事長 圓本 武喜 氏





まるもと たけき氏
1964年経済学部卒
 今回の「塾員in台湾」は、流暢な台湾語を話され、台湾の社会事情にも大変精通していらっしゃる、圓本武喜氏のご登場です。
  『算数が不得意なのに計量経済のゼミにいたため、その後世の中の誤解を受け、技術系の道に。当初車作りの会社から、特殊鋼の材料屋に転進。1988年に台湾に工場を作り、日本と掛け持ちながら、台湾の単身生活を継続中。私の人生自体“馬馬虎虎”。カルテットでも組んで歌いたいと思っていますが、現在時間とメンバーに恵まれていません。仲間募集中』−と、このたびの掲載にあたって、自己紹介いただきました。
 工場設立の際のエピソード、素晴らしい台湾人のご友人やガイドブックには載っていない台湾の見所のご紹介など、印象的なお話が続きます。
 台湾語とともにある圓本さんの台湾生活。文化の根幹を成す言葉を知ることは、その国をより深く理解することにつながっていく−そんなことを改めて感じながら、今回の「塾員in台湾」を皆さまにお届けいたします。どうぞお楽しみください!


−台湾に赴任される前から現在に至るまでのお仕事についてお聞かせ下さい

 私の会社は みがき帯鋼 特殊みがき帯鋼とよばれる、高炉メーカーの冷間圧延鋼板特殊鋼(はがね)の特別仕様の厳しい物や、生産しにくい厚さ、硬さ、幅、量のものを生産しています。自動車の警報機の振動版、スターター、ホースバンド、ベアリングとか 高級なペンクリップ、カッター のこぎり 電子部品用(LMEなど)特殊な用途に使われる材料を、日本で生産しており、それと同じ様なものを台湾でも生産しています。
 −台湾に来る動機となったのは

 1968年以来、台湾の文房具メーカーに材料を輸出しておりましたが、円が360円から240円200円とどんどん推移し、輸出を断念せざるを得ないと思っていました。

 台湾側から、せっかくの縁が途切れるのは残念なので、台湾で互いに資本をだしあって供給工場を作ろうと提案され、台湾の南投市に工場を作ることにしました。

 土地探し、会社設立、新規設備製作、移設等々、お互いに協力しあい工場が完成しましたが、当初は異文化交流そのものでハプニングの連続でした。

−中でも一番戸惑ったことは何でしょうか
 
 当初は、機械の設置、オペレートの訓練など、指導はボデイランゲージ、漢字、絵でコミュニケートしました。台湾にも多少日本語のわかる人が居りましたが、互いに忙しく自分の出来る範囲で分担していました。一番厄介だったのは 食事でした。
 
 一緒に日本から連れてきた職人たちのほとんどが、日本の田舎の出身者。初めての海外で、異文化。食事も八角のにおい。香草のにおい。暑さ。あぶらっこさ。これらが入り混じって、ぜんぜん食事をしなくなりました。そこで異文化感をなくそうと、茶碗、はし、おわんなど、日本風のものを調達し、しょうゆなども彼らの希望のキッコウ萬。料理も台湾のおばさんに任せず、不器用な手つきで海苔を巻いたおにぎりをつくり、新鮮な卵を調達し卵かけ、豆腐の味噌汁などをつくり食べさせました。

 不思議なことに、体力がついてくると多少の台湾の料理も食べられるようになり、やっと仕事が出来る体制ができました。その後休日に九族文化村で、高砂族のおじいさんやおばあさんと日本語で会話できますます元気になってくれました。

この経験は、台湾の人たちにも貴重な経験となり、その後別の部門の工場建設に役に立ったようです。


−台湾に来られてから今日までの10数年で、台湾のどこが一番変わったと思われますか


 一番感じるのは、道路がどんどん整備され、今では彰化から南投まで、高速道路で時速115Kmで走って行ける様になりました。また、赴任当初は女の人がほとんど化粧をしていませんでしたが、今は日本と同じ。

 乾杯に使う酒が 紹興酒から XOブランデー 21年物ウイスキー 赤ワインと変わっていったこと。又一気飲みが少なくなってきたこと。赴任当初は、上海,四川、湖南、台湾、広東など料理が専門家されていましたが、いまでは、ごっちゃまぜ。また洋風化されてきた感じです。

−台湾での日常生活について教えてください。

 私の周りは、日本人はいません(赴任当初数月で全員帰国)。従って台湾のゴルフフレンドばっかりです。赴任後3ヶ月ぐらいから 台湾語の学校に夜週1回通っていました。
 今は月に一回ぐらい通っています。これが幸いして、台湾語のわかる日本人として寵愛され、まるでペットのような感じです。そのため友人の和が増えすぎて、日本に戻っているときでも電話が掛かってきて「日本についたばかりだが、会いに来ないか」(私のうちは埼玉の越谷)「こっちは東京の方だよ」というと「新幹線で3時間じゃないか」とマイペース。

 色々ご馳走になるが 「ありがとう」と言うと「なあに、日本でご馳走になるから、なんせ日本の食事は高いから」と冗談をいわれる。こんな感じで、半分以上こちらの連中と食事しているので、極めて清潔?な生活ゆえ、家内は2年1回来るか来ないかの安心感。
 積極的に台湾の人たちと接していると、台湾の人たちの新聞に報道されない本音が、見えてきて興味深いものです。

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