塾員 in 台湾
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−覚えた台湾語についてエピソードがあれば教えてください。
天主教の外国からきた宣教師に台湾語を教える学校に通っていましたので、台湾人以外の友人が出来ました。各国の人の国民性が垣間見えておもしろいです。
フランス人は マイペース。アルゼンチン人は イタリア人と同じずうずうしく女好き。イギリス人は生真面目。コンゴ人は、紳士。全員台湾語が共通語。
少し台湾語が話せるようになったとき ある台湾人が口をなかなか聞いてくれない。
何気なく日本語をつぶやいたとき、ひょっと彼の態度が、変わった。そして「ぱいせ、
ごあ ごーほえ り し ごあーせーらん」といったのです。外省人と間違えたのです。日本人が台湾語を話そうとすることが無いし、外省人が台湾語を流暢にはなせる人がいないので 誤解していたようです。その後 豹変し楽しく会話できました。
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台湾で印象に残る出会いについてお聞かせください
私にとって、生涯の友人とも言えるのは順徳工業の董事長、陳朝雄さんです。
私と同じような境遇で、彼は6歳まで日本に、私は5歳まで中国大陸にいて、いわゆる一文無しの引揚者の家族でした。11人兄弟姉妹の3番目。子供のころから父親の工場を手伝いながら学校に行き、父親の不慮の事故の後、小さな文房具工場の社長を引き継ぎました。そのころから、どんなアイテムでも良いから世界で一番にしたいと、プレスの機械、金型、これの検査機械、熱処理のこと、これらの運転技術、およびその教育とすべてにリーダーシップを発揮しすすませ、今では、カッター
、
ダブルクリップ ステプラー(ホッチキス)
ICリードフレームでは世界一にさせました。
こんな経営者ではありますが、日本人と間違われるほどの日本語、それ以上の英語、広東語、勿論台湾語、中国語と語学力のみならず、中華料理のみならず日本料理に精通し、身のこなしが軽やかで素晴らしいマナーの持ち主。約束の時間に遅れたことが無いし、どんな人との約束を反故にしたことが無い(当たり前のことをきちんと出来ている人)のです。男の子3人(これも私と同じで、すべて同じ年)。
家に帰っても お客さんの料理を 奥さんの手伝いしながら作っていくなど、私には到底及ばない行動力ですが、けっして威張らない好人物です。年は同じですが、私のまるで人生の教師で、尊敬しております。彼は台湾の礎となったという意味で、国から表彰され、今その人たちの集まり磐石会の会長を務めています。
あと一人は 台湾語を愛し研究している台湾人で、筑波大学の研究生、文教大学の講師をやめ、台湾語の辞書作りに専念し、茨城県谷田部と台北に半々住んでいます。
ここのところで純粋の(学問的に)台日辞典を完成させました。販売もしましたが
、
受け取ったお金の半分は 新潟地震に寄付、その後インドネシア(スマトラ島沖地震)に寄付。
この後又彼は仙人みたいな生活で、台湾語の研究を続けていくでしょう。
(彼は研究のため独身。家庭菜園で食料をまかなっている)
この二人の方を紹介したかったのは 日本人が抱いている台湾人のイメージとは大分違うのではと 思ったからです。
陳朝雄氏御夫妻と
−台湾でおすすめの場所や美味しいお店など
をご紹介ください
故旧博物館など皆が知っていそうなところ以外では、花連から台東に行く山側のみち
で、日本人が苦労して開墾した水田地帯を過ぎ、鹿野という部落がありますが、ここで貸し自転車にのり、(案内してくれます)田舎の自然が満喫できるだけでなく、自然の風の音、空気などあまり意識しなかったものが、道に空を見るように寝転がって目を閉じ音を聞き、そうして目を開けてみると地面からまるで違った緑の世界が見えます。ここから知本温泉までは1時間ぐらいです。
彰化の町から車で20分くらいに鹿港があります。大きな廟の反対側に 古い町並みの路地があります。ここを散策すると一般のみやげ物以外に 清や明の時代の刺繍した古着がおいてあります。この刺繍は見事なものが多いので、部分的に切り取り額に入れたりすると、素晴らしい芸術品となります。この町の博物館長は塾の先輩です。
食事の場所など台中だと衣蝶(市政路)デパートの11階広東料理、五月梧桐(台中美術館の迎えの道)の上海料理、科学博物館のそばの菊川のたけのこ料理(日本料理)、台北だと 老爺(ロイヤルタイペイ)の迎えの路地の客家料理の店、時間があれば 渓頭の手前1kmぐらいの渓谷沿いにある川魚と山菜料理の店や、日月潭の
ハンピロウの上海料理( 日本人好み)など如何でしょうか。
花東公路の途中、自然の風、樹の音、鳥のさえずりが感じられる道路にて。
圓本さんと奥様。
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