塾員 in 台湾
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(財)交流協会 台北事務所 経済部主任
   木村 敏康 氏



 Profile
 1964年12月 東京都国立市生まれ
 1987年3月 慶応義塾大学理工学部化学科卒
 1989年3月 東京大学大学院理学系研究科 修士課程修了 
 2002年7月 財団法人交流協会台北事務所 経済部主任


 今回は、(財)交流協会にて、日台間の難しい問題に日々取り組んでおられる、木村敏康さんにご登場いただきます。木村さんには、ご自身が撮影された風景写真の数々を当会HPの表紙用にご提供頂いておりますが、赴任後、積極的に台湾を歩き、見て、食べて、と、台湾の社会のなかに入り込んで様々な発見をされながら、毎日の台湾生活をとても楽しんでいらっしゃいます。交流協会にまつわるエピソードや、大学時代の思い出など、ユーモアのあるお話もたくさんです。どうぞお楽しみ下さい。


 −現在のお仕事についてご紹介ください。

財団法人交流協会台北事務所の経済部主任というのが肩書きです。おもに台湾での知的財産権問題についての調査、研究、相談や交渉などをしています。

 ご存じのように、1972年の日中国交正常化と同時に、日本と台湾のあいだの国交関係は断絶してしまいました。その結果、台湾域内には、大使館を初めとする一切の日本政府関連機関が設置されなくなりました。しかし一方で、日台間には人的交流や貿易経済などの面で非常に密接な関係が継続していましたから、そうした民間レベルでの交流を維持、発展させるために設立されたのが財団法人交流協会です。

交流協会を実質的な日本国大使館と評される向きもありますが、れっきとした民間団体です。ですから私も公務員の職を休職して民間人として出向しています。
 それまで仕事で海外に行く時は、必ず緑色の公用旅券か茶色の外交旅券というパスポートを携帯したのですが、今回は、プライベートで使っていた赤色の一般旅券での赴任になりました。

 そんなこともあって、着任時のフライトでは、仕事でありながらまるでバカンス旅行のように感じたり、本当に大丈夫なのかという不安な気分に襲われました。今ではすっかりそうした違和感はなくなりましたけれど。

おまけに、お恥ずかしい話なのですが、実は赴任を命じられるまで交流協会について具体的なことは全く知らなかったのです。経済産業省の所管団体ということで名前は聞いたことがあったのですが、てっきり電気の交流と直流の交流のことだと思いこんでいました。ですから電力エネルギー関係の団体だと思っていました(笑)。
 英語の名称が「インターチェンジ・アソシエーション」なので、これからは高速道路のインターチェンジのことを連想して、高速道路建設の技術交流をする国際的な団体だと思ったほどです。

私は、台湾に赴任するまで、経済産業省の特許庁で主として特許出願の審査業務に携わっていました。こうした経験から、特許、商標、著作権といった知的財産権の制度や実務について専門的な知識が、台湾赴任の直接的な理由になったようです。
 2002年1月に台湾がWTOに加盟したのを機に、台湾における知的財産権制度の整備状況や海賊版、模倣品などの知的財産権の侵害状況について調査分析をするため、2002年7月から3年間の予定で派遣されました。特許庁としては、新設のポストです。私は理工学部出身ですから、大学での専攻とはかなり縁遠い仕事内容ですね(笑)。

 −木村さんは、現在の日台交流の現状と今後の課題をどのように感じていらっしゃいますか。

何しろ、日本政府としては台湾を国家として承認していないので、私自身も文章を書くときなどは「日台両国」とか「台湾国内」という言葉は使えません。
 かならず、「日台双方」とか「台湾域内」という言葉に言い換えなければならないという問題があります。台湾は、地理的には日本から最も近いのに、政治的には高いハードルがあることは否めません。
 こうした背景があるため、私の赴任が決まった時点では、日本の公務員で台湾に出張できるレベルは課長補佐クラスまでという制約がありました。不謹慎なのですが、いわゆる「偉い官職」の人は日本から来ないし、出張者の頻度や人数も他の国の在外公館に比べれば格段に少ないと聞いていましたので、かなり気楽な海外勤務だと思っておりました(笑)。そうした手配や世話の必要がないですから。
 しかし実際に赴任してみると、台湾のWTO加盟やAPEC参加によって状況は一変しました。私の着任後から、出張者のレベルが徐々にランクアップして、初の課長級、指定職級の来台が実現するなど、日台交流の観点からは非常に喜ばしい状況へと改善されてきました。
 とはいえ、中国の目覚ましい経済発展を前に、日台間の経済関係の絆の強さは反対に薄れつつあるように見えます。「一つの中国」という国是では、なかなか大きな成果が出せないというのがもどかしいところです。

李登輝前総統と

−台湾に赴任されてから、仕事上、大変だったことはありましたか。

霞ヶ関にいた頃に比べれば、台北での仕事は苦労のうちに入らない、というのが本当のところです。
 特許庁時代は、帰宅は連日、終電か真夜中のタクシーでした。たしかに仕事には充実感や達成感がありましたが、まさに仕事だけの人生という感じでした。
 それが、台北では通勤も片道徒歩7分で済みますし、残業も普段はありません。仕事の内容も、特許審査の仕事のように頭脳を酷使する訳でもなく(笑)、最初は、ちょっと気が抜けたような感じもしました。
 着任直後から、中国語という慣れない言語に直面することになって、戸惑うこともありましたが、台湾当局のカウンターパートの多くは日本語か英語を使いこなす人ばかりでしたから、仕事をしていて外国にいるという感じはほとんどありませんでした。

具体的な仕事の面でも、当初はいろいろ問題のあった台湾の知的財産権保護制度も、ここ2〜3年の法律改正によって非常にしっかりしたものになってきました。かつては海賊版王国とか模倣品大国と呼ばれていた台湾も、制度改正や取締り強化によってかなりの改善がみられています。
 身の回りでも、光華商場や夜市で頻繁に見かけた日本の人気ドラマの海賊版VCDが今年の7月から全く姿を消しています。
 こうした状況の変化は、私が積極的に動いたというよりも、台湾当局がとても熱心に知的財産権問題の解消のために努力をしてきた結果であり、まさかここまで改善が急テンポに進むとは思っていませんでした。

日本では「失われた10年」といわれ、経済分野の改革のスピードが鈍いのに比べると、この台湾のアジリティの素早さは、政策立案にせよ、企業活動にせよ、日本には真似のできないことで、本当に羨ましいことです。

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