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−その後、東京歯科大学市川総合病院で勤務なさいましたね。
はい。東京歯科大学市川総合病院は慶應の関連病院で、90%の医師が慶應の出身です。私はそこで14年勤務し、内科の講師から、助教授、教授となり、1988年に台湾へ帰国するまでの間、学生の教育と患者の診察に全力で努めてきました。市川の内科は、そのせいあって、評判が良くなったと聞きました。昨年まで、1年に1度、大学で血液学の講義を行いに日本へ行きましたので、東京歯科大学市川総合病院との繋がりは台湾に戻ってきてからも長い間続いていました。
−88年に長年勤務された病院を離れ、台湾へ帰国を決意されたのはどういう理由だったのでしょうか。
父の病気のためです。父が病気になったと聞いて私はとても心配で、台湾に電話をしてどのような容態かと訊ねるのですが、父の病状を私にきちんと報告できる人はいませんでした。聞いても何となく物足りない。「これはもう自分が帰るしかない。帰って父の様子を見なければ」、そう思い台湾への帰国を決心しました。
私が台湾に帰国して1週間後に、父は高雄医学院附属病院に入院し、それから5年後に亡くなりました。私は父をとても敬愛していましたので、父の死は大変悲しいことでした。父は生前、口にはしませんでしたが、私を医者にしたのを後悔していたようです。私は卒業後も日本におり、23年もの間台湾を不在にすることになりました。父は、私が父の会社を手伝ってくれたらどれだけいいか・・と思っていたようです。あの当時、息子を医者にして悔やむ父親も珍しいでしょうが、それが本音でした。
−高雄医学院は、1954年にお父様が高雄市内の土地を無償で提供して創られた学校ですね。
はい。約十二甲部の土地を条件なしで寄付しました。私の家は、終戦前は南部に300甲部の土地を所有していたのですが、戦後の土地改革によって、200甲部がなくなってしまいました。
残った市内の土地の中で、一番大きな敷地を、医学院の設立のために提供しました。
−十二甲部というと、東京ドーム約2個半分になりますから、大変なご決断でしたね。
父は高い志があり、社会に貢献したいと言う気持ちの強い人でした。
ある日、台湾で最初の医学博士(台湾初の博士取得者でもある)の杜聡明教授が父を訪ねてきました。それがそもそもの始まりです。杜教授は台湾人で、終戦後すぐに台湾大学医学部長に就任した人です。その後、いろいろな事情で職を退かざるを得なくなった杜教授は、何とか自分でひとつ学校を設立したいという気持ちを持っていたのですが、台北から学校を建設する場所を色々探してもなかなか見つからない。そこで南部までやってきて、知り合いを通じて父のところ相談にきたというわけです。
−それが運命の出会いとなったのですね。
そうです。杜教授は薬学の専門で、最初は薬学部をつくろうと思っていたそうです。薬学部であれば1甲部あればいいと。しかし父は、「そんなに苦労して探してきたのだから、医学部を創ろうではないですか」と提案して、12甲部の土地を提供したわけです。
ただ、土地を提供しても、教育部に学校の登記するときに学校を設立する資金がありませんでした。そこで父は他からお金を借りて、学校を設立しました。その時に、附属の病院の名前を中和紀念医院としました。「中和」というのは私の祖父の名前です。
−私財を提供して学校や病院を創られたお父様の心意気は、どこから来たとお考えですか。
父の人生に最も影響を与えたのは、慶応で学んだこと、慶応義塾の精神です。中学から大学までを慶應義塾で過ごした経験から、国家権力や社会風潮に迎合せず、何事も自分の判断と責任のもとに行うという「独立自尊」の精神を、父は常に心の中に持っていたのだと思います。杜教授と出会ったとき、父は医学部を設立することに大きな社会的意義を見つけ、慶應義塾のような学校を創りたい、と考えたのだと思います。
もちろん、高雄医学院は、最初から今日のように規模が大きかったわけではありません。一歩一歩積み上げてここまで来たという感じです。私は医学院の2期生でしたが、最初は小学校よりも小さい一棟の校舎しかありませんでした。それから毎年少しずつ大きくしていき、今病院は1500床のベッド数を持つまでになりました。
父は生前、学生たちによくこう話していました。「『以高医人為栄』−『私は高雄医学院の卒業生です』、と将来どうぞ胸を張ってください」と。父はこの高雄医学院を立派な私立大学に成長させなければならないと思っていました。慶應の卒業生が母校を誇りに思うのと同じように、高雄医学院の卒業生が、高雄医学院で学んだことに誇りを持ち、台湾の社会のために活躍して欲しい、そう強く願っていました。
現在、高雄医学院は、医学部、口腔学部、薬学部など6つの学部を持っています。これまでの卒業生は二万二千人にのぼり、そのうち医学部の卒業生は五千五百人になりました。在学中の学生は五千百名いますが、台湾でも屈指の医科大学として、高い評価を得るに至りました。
父・陳啓川氏(慶應時代)
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